「Don't think twice, it's all right」
石原さんの声を聴いて欲しくて久しぶりウィンドウズのパソコンを開いてリアル・ジュークボックスをダウンロードしてWAVファイルに音を録音してそれをMP3に変換圧縮して、さあこれでりある・プレイヤーで聴けるかな。
諸先輩方々殿
皆様ありがとうございます。
出ました!でかいのが・・・ 1月17日午後6時3分、3760グラムの男児無事出産です。
きわめて安産でございました。翌日には母子同室で世話を始め、4日後に退院、今日から旦那も仕事に戻り一人で育児、家事も少し復活です。ご無沙汰していた間の小々美の独り言、投稿します。『誕生』 小林小々美 君は脈を高ぶらせて寝返りをうつ
私の体内で
腕や脚の力を試す
目を閉じて
夢を見る
君の笑顔が見えるよ
宿りから放たれ
臍の緒をほどき
とにかく誕生するのよ
風が
君の必要とする酸素を運んでくれる
空が
君の必要とする光を届けてくれる
緑が
君の必要とする匂いを漂わせてくれる
私は君に
温かい乳を与えよう
クイック・タイムじゃないと聴けないらしく、そういう報告があるなか、生きていたら石原さんが喜ぶだろう反応もあった。ぼくも心から嬉しい。そう、彼は死んだのだ。僕がなぜ石原さんと呼ぶかといえば正式な名前も知らないのだ。いつもケンボウ、ケンボウと呼んでいた。だから多分、憲一だとは思うのだが確認したことがない。彼の家は土木業というより砕石業で、彼は社長といってもよかった。大学を出てから五島へ帰ってきて家業を継いだ。家も大きいし金持ちでお坊ちゃんといってもよかったが、泥にまみれた働くお坊ちゃんだった。削岩機の振動に抵抗するかのように絶叫しながら、太陽の下で汗を流しながらロックしていた。10トントラックで盆踊り会場に乗り付け、演奏させて下さいと主催者に頼み込み機材を降ろしステージを作って、演奏した。いつもやめろ、やめろ、というヤジのなかひとりでも耳を傾けてくれる女のために演奏した。市民会館でやったときは、ヤクザのいやがらせがあった。地元のキャバレーが演奏してくれよ、といったけど、すみません、演歌はちょっと、やっていないんです、と丁寧に断ったのだが、やつらは気にくわなかったのだ。原田真二がベスト・テンで一位になった次の日、「橋本、曲作ろう、曲作ろう」といってよっぽど口惜しかったのだろう、それまでカヴァ−しかやってなかったけど、急にオリジナルに目覚めていた。しかし、出来た曲はいいものではなかった。クラプトンの「レイラ」や「ホテル・カリフォルニア」をやらせたら上手いのに、そういうところはこれからだった。いろいろ年貢の納めどきがきて、今度、結婚するよ、とある日言った。そうだ、あれは福江商店街をぼくがぶらぶら歩いていたときだ。急に自動車が止まり、中から彼が降りてきた。「おー、橋本、なんばしよっとか」、確かそう言ったと思う。それが彼と口をきいた最後、「じゃあな、またそのうち」。
葬式には婚約者が彼の写真をもって先頭で歩いていた。その人も3年後くらいには結婚したようだ。彼はいい男だった。地元の人から一度、あんた、ケンボウと似たとこがあるねえ、と言われたことがあって、僕はとっても嬉しかった。僕はギターの奴が大きい音で弾くので、声が聴こえん!、もっとしぼれよ、とかよく喧嘩していたけど、そういうときでも、何度もたしなめるのが石原さんだった。彼は決して怒らなかった。顔の上に岩石が次から次に落ちてきて、顔はまったく潰れていたという。僕は見ていない。いや、おそらく誰も見ていないのだろう。救急車の人が見ただろう。
石原さん、あなたの声をこの地上に埋もれさせておくのは、あまりにも勿体無い。文字どおり命と交換して、あなたはこの声を残した。残したのだ、と思いたい。そしてそれはぼくがいろいろ語らずとも、この声がすべてを表現しているだろう。ある人があなたの声を聴いてそれを証明してくれた。
「今日もうこれは私の知った人になったと思った]
「もう私の一部になったなと思った」
「いつまでも聞いていたい声だった」
これは最大級に核心を突き貫いた言葉である。
言葉は発生するのである。
僕は紹介者として最高に嬉しい。
02.01.21
「ドント・シンク・トゥワイス」 石原さん
70年代、五島の岐宿に凄い男がいた。バンド「レイラ」のリーダーでもあった彼は1979年11月に採石場で落ちてくる岩石の下敷きになって死んだ。僕も一時期参加して、払い下げのバスを改造し畳を敷き電気をひいて楽器を運び入れ練習していたこともあった。最後に思い出に残っている曲は「ホテル・カリフォルニア」であった。そのころ録音にはさっぱり誰も興味がなくて写真にもないし、まだビデオも普及していなかったからこれが唯一のこった僕の音源である。
やっと念願の石原さんの声を探しだした。録音は悪いがまるでボブ・ディランが歌っているかのような彼は80年代には生きることができなかった。音楽だけでいいんだがクイックタイム・ムービーで録音したので、ついでに「旅のホテル」から五島の写真をつけてみた。これからこうふうに自分の曲や詩の朗読などたくさんアップしたいと思う。GOOの100MB容量のHPも確保したことだし、ケーブルネットにもなったことだし、より映像と音響面を強化していける環境が整ってきたように思う。あとはほんのちょっと生きて行く金があればいいのだが、不況、不況、不況で大変である。来年が底だとかいう。底まで行けるか。底まで楽しく生きて行こう。
01/02/18
岐宿町は魚津ケ崎公園周辺の休耕地を借り受けてコスモスを植えている。秋になると満開になり、魚津ケ崎の名物。町では、開花期に合わせて、コスモスコンサートを開き、花見客を楽しませている。
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